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北欧巡り [Yoko]


 北欧、都市巡りの旅をしました。

 関西から北欧に行くには、関空から週に2便飛んでいるフィンエアーの直行便に乗るととても速いです。世界地図を広げてみるとわかりますが、フィンランドの首都ヘルシンキはヨーロッパの中で飛び抜けて東にあるんです。
 ・・・・・・・けど、やっぱりいつものKLMオランダ航空、アムステルダム、スキポール空港経由にしました。
 福岡から計算すると、残念なことに3万円くらい安かったんです。ま、マイレッジも貯まるし・・・いっか〜

 福岡を朝8時前の飛行機でとんで、関空で乗り換え、機上の人となりました。
はい、「ただいま当機はフィンランド、ヘルシンキ上空を通過しております。これから、コペンハーゲン上空を経由し、スキポール空港へと向かいます。」
 ・・・・・・・オリタイ・・・・・  スキポールで4時間待って、ヘルシンキ行きの飛行機に乗り換え、ヘルシンキに到着したのは夜11時。
 あたりは、・・・・明るかった。
 白夜です。
 夏至にはちょっとはやいので完全な白夜とは行きませんが、初めての土地に到着したときに明るいというのはうれしいものです。
治安は・・・女の子達のグループが街角でじゃれあってる。大丈夫ね。

ムーミンのドールズハウス
 フィンランドは森と湖の国、ムーミンのふるさとです。北欧ではちょっと有名なアラビア社の陶器工場へ行ったところ、ムーミングッズがいろいろ売られていました。思わず、ムーミンのマグカップを買ってしまいました。
 これから、旅行するのに、早速荷物が・・・・
 郵便局ではムーミン切手や絵はがきも売られています。
 で、ムーミン谷に行くつもりだったんです、本当は。
街角のトロル??
 ムーミン谷はヘルシンキから特急列車で2時間半、バスで20分位のナーンタリという町にあるそうな。テーマパークってやつね。ヘムレンさんの散歩道を散歩したり、ムーミンママのドーナツも食べられる。ムーミン達と記念写真も撮れる・・・・
 う〜ん・・・・・・往復6時間・・・・
 結局、ヘルシンキから高速船で1時間ちょっとの距離にあるタリンという町に行くことに計画変更してしまいました。
 ごめんね、ムーミン。

 さて、ここで問題です。タリンってどんな町でしょうか???
 こたえは、
エストニアの首都。
 イメージ湧かないでしょ!???
タリンの城壁とピンクの建物
 ソ連崩壊の突破口になったバルト3国、エストニア、リトアニア、ラトビアのエストニアですよ〜。ガイコクです。ガイコク。
 タリンの旧市街は中世の城壁のあともそのままで、意外なことにパステルカラーな町でした。こういう、地理的に国境に近い町は周りの国々の影響を受けて独特の色合いが見られる物ですが、タリンも北欧、ドイツの影響を濃く受け、そして、旧ソ連領であったという複雑な歴史に期待を裏切ることはなく興味深い町。ボーっと建物を眺めているだけで飽きません。
 新市街は外から眺めただけですが、バルト三国の豊かさを感じさせられました。これから、益々発展していこうという町の活気はヨーロッパでは妙に新鮮です。
 もう一つ面白かったのは城壁にそって、おばちゃんたちの、手編みのセーターを売る屋台(?)がズラーっとならんでいた所。さすが、冬の国。トラッドな模様を編み込んだセータたちに思わず目を奪われました。もちろん、物価の高いヘルシンキからは考えられないくらい安いんです。ただし、毛糸の質は最上級とはいえず、重いんですね、これが。随分迷いましたが、結局は買いませんでしたけど。

 ヘルシンキから、バルト海をわたるフェリーに乗って一晩、スウェーデンの 首都ストックホルムにわたり、電車でマルメへ。
 マルメはデンマークの対岸、スウェーデンのスコーネ地方に位置する都市ですーと言われても判らないでしょうけど、ニルスがガチョウのモルテンに乗って旅をした地方といえば判っていただけるでしょう。スコーネの古城巡りに行きたかったんですが、これはまた次の機会に・・・。
ロイヤルコペンハーゲンの猫さん
 マルメからフェリーでデンマークのコペンハーゲンに渡って、人魚姫と記念撮影。ロイヤルコペンハーゲンの陶器工場の見学なぞ楽しんで、この旅は終わりです。

 北欧の都市は本当に何処もここもスッキリ清潔で季節の光に満ちあふれた綺麗なまちばかりでした。食べ物も美味しいし治安もいい。旅行者にとってはいうことない町ばかり・・・・といいたいところですが、物価が高い。
 たまたま¥が弱っていた時期ということを差し引いても、物価は高いです。短い旅行だからokだけど、住むとなるとしんどいだろうな、と思ってしまいました。ま、例によって、外食しないで、自炊できると感想もまた変わるんでしょうけどね。
 確かに、コペンハーゲンでも、住宅地のお総菜やさんでつくってもらったサンドウィチなんかはかなり豪華で美味しかった。
 冬が長いということで、家の中でいかに楽しく過ごすかを考えているのでしょうか、デパートにいってみても、例えば手芸用品のコーナー等の品揃えは目をみはるものがありました。私は残念なことに手芸の趣味はないのですが、あれは、好きな方にはたまらないものがあると思います。

 また、エコロジーの流れで、ホテルの固形セッケンが姿を消し、リキッド状のものが主流になっていたのには驚きました。
 固形のミニ石鹸だと、小さくなったものはそのまま捨てなきゃならないし、例え同じ客が連泊しても、新しい石鹸を補給していたりしてたでしょ!?リキッドだと、大きな容器に継ぎ足していけばいいので無駄がでない。
 また、私が泊まったホテルは皆、タオルのところに”お客さまへ”というメッセージがありました。
 ”今まではホテルのタオルは毎日洗濯して新しいものと取り替えていたので すが、地球上でそれだけのタオルを毎日洗濯することは環境にとってあまり よいことではない、だから、もし、このタオルを洗濯しなくてもいいよ、明 日もこれを使うよ、というお客さんはタオルをタオル掛けに掛けておいて下 さい。このタオルは洗濯してね、というものはバスルームの床に置いておい て下さいね。”
デリのサンドウィッチ☆
 つまり、洗濯物を増やすことはそれだけ地球を汚すこと、だから、一人一人 が少しでも洗濯物を減らす努力をしましょうね、という考え方です。
 これは決してサービスの低下ではありませんよね。そして、お客さんもほう もこういった考え方に自然に同調できるのだろうな〜と思うと、エコロジー 意識の持ち方というものを考えてしまいました。
家では気をつけていても、旅行に行ったとき位、とか、外食したとき位、と かつい考えてしまいがちなんですが、大したエネルギーも使わずにこんな選 択が可能な訳です。
 日本では最近行き過ぎた清潔志向とかいうものが問題になっていますが、本 当にちょっとした物の見方を変えることで、僅かかもしれないけれど、地球 にあたえるダメージは減らせるのかもしれない、とあらためて思いました。 こういったことを、自分で選べるようになったということは地球人の旅行者 として喜ばしいことだと思います。

 ま、泣いても笑っても旅行は旅行。今回はさしたるトラブルもなく、カード の引き落としをビクビクしながら待つ毎日ですが、とりあえず、暫く真面目 に仕事しなくっちゃね??
 これで、またカルチャーセンターの旅行英語講座のネタも増えたってもんで す。

今度は・・・に行く予定!!??

こうご期待ですが、円あんまり安くなってほしくないなあ〜。

6月22日

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近況と手塚治虫 [ゆい]



 慌ただしくNYから帰国してからというもの、「夢用絵の具」ノベライズの資料集め と締め切りに追われ、頭に重石をのせられたような状態のまま、だらだらと昼寝に逃 避していました。こういう時は読書がはかどる。宮部みゆきの新刊「理由」を一日で 読破したところに、《ロス疑惑三浦逆転無罪》の判決。まだ手を着けてない島田荘司 の「三浦和義事件」を読まねば…とあせりながら、「夢用」の資料を手にしました。 それは…手塚治虫夫人・悦子さんの書いた「夫・手塚治虫とともに〜木洩れ日に生き る〜」

 読み進むうち、すっかり逃げ腰になってた仕事に対して「喝」を入れられたような 気がしました。アイデアに詰まって『俺のせいじゃない、俺はこんなに一生懸命漫画 を描こうと努力しているのに』と、頭をかきむしって苦しむ手塚の描写を読んで、あ あ私はまだ何一つ努力してないよ…と、自分が恥ずかしくなったのです。
 また、娘のるみ子さんが書いた「こころにアトム」「オサムシに伝えて」を読みな がら、何度も何度も涙ぐんでしまいました。父・手塚治虫とちゃんと向き合えないま ま死別した娘が、
プランナーとして父の作品のアニメ化やイベント化を実現するため、残された作品の 中から読みとってゆく父のメッセージ。やがてそれは、アトム生誕四十周年記念「私 のアトム展」という、私が最もカンゲキしたイベントへと結実してゆくのですが、い やこれがなかなかどうして、さすがは手塚の娘。作品を通して、父の本質を見つめて ゆくその視点の確かさと、そのことをもう二度と語り合えない切なさが見事に表現さ れています。

 そんなこんなで、少し背筋を伸ばしてノベライズに取り組み始めたところ、番組作 りに当たって、一番重要な資料となった私の所蔵本・山本暎一の「虫プロ興亡記」が どこを探しても見つからない。いつものことなのだが、一度こうなると必要なくなる までは見つからないというブラックホールのような我が家。そのかわりと言ってはな んだが、手塚全集はもちろんのこと、次から次へと「手塚治虫大全」やら「手塚治虫 劇場」、など手塚関係の本が出てくる出てくる。ああ、やっぱり私は手塚と共に育っ てきたのだなぁ、そしてその手塚を単なるファンではなく、仕事の一環として扱える のは本当に幸せなことだなぁと実感したのでした。

 以下は、その本のために番組のナレーションをベースに書き下ろした原稿です。第 一稿なので掲載時には変わると思いますが、今の私の気持ちを端的に現していると思 うので、ここに一足先に公開します。

 尚、写真は我が家のトイレにあるアトムコーナーです。

 「あなたが、一番尊敬してる人は誰?」 何かの折り、そんな質問を受ける事があると、真っ先に頭に浮かぶ名前がありました。その人の名は…、手塚治虫。二、三歳の頃から「将来は漫画家になりたい」と言い続けていた私にとって、その憧れの頂点に立つ人が、《マンガの神様・手塚治虫》でした。
 二十歳の頃、神戸の書店を訪れた手塚先生のお手伝いに駆り出され、一言だけ言葉を交わしたことがあります。
 「先生は、おいくつになられたのですか?」
 ベレー帽の下に、満面の笑みをたたえて手塚先生はこう答えました。
 「漫画家には、年齢はないんですよ」
 もう記憶の彼方だけれど、あのベレー帽は茶色だったような気がします。反対に何にも増して鮮明に焼き付いているのは、目の下のクマでした。あのやさしげな笑顔を隈取る茶色の陰、生涯決して消えることのなかった残酷な茶色こそ、私にとっての手塚治虫のイメージそのものだったのです。

 手塚治虫、昭和三年大阪府豊中市生まれ。
 「鉄腕アトム」「リボンの騎士」「ジャングル大帝」と、あふれ出るアイデアで生涯に描き続けたマンガは実に15万枚。その一方で、劇場用長編アニメ主流の昭和三十八年当時、不可能と考えられていたテレビアニメのレギュラー番組に果敢に挑戦、パイオニアとして前人未踏の道を切り開きました。マンガの連載を抱え、眠る時間を削ってのアニメ制作。生前、手塚治虫は自分を創作へと駆り立てる二つの仕事を、このように例えていました。
 「マンガは本妻、アニメは愛人」
 つまり、マンガで稼いだお金を愛人であるアニメにつぎ込んでしまうというのです。では、一体本当の妻であり仕事の虫である手塚治虫を支え続けた悦子夫人は、夫の言葉をどう受け止めていたのでしょう。そんな疑問から私達の番組作りはスタートしました。 

 昭和二十年、日本が太平洋戦争の終戦を迎える年、十六歳の手塚治虫は昼は大阪大学付属医学専門部の学生、夜は角帽をベレー帽にかぶり直して漫画家へと変身し、二足のワラジを履いていました。当時は赤本と呼ばれる貸本漫画の全盛時代。オモチャ問屋と共に貸本漫画の出版社が居並ぶ大阪・松屋町(まっちゃまち)を闊歩する手塚少年のベレーの中には、溢れんばかりのアイデアが詰まっていました。
 翌、昭和二十一年「マアちゃんの日記帳」の新聞連載でデビュー。この新人漫画家はそれまでの漫画とは全く違う斬新な作品を次々と発表。それまで漫画と言えば、ストーリーものでもせいぜい2〜4ページの読み切り。コマの大きさは全て同じで全体にチマチマとした人物が描き込まれていました。ところが、手塚漫画は大ロングを左右の見開きページいっぱいに描いたり、背景と遠近感を持たせたキャラクターを超どアップで描くなど、まるで映画のカット割のように躍動感ある絵柄と、奇想天外なアイデア、緻密な構成で従来の漫画のイメージを一新したのです。
 その頃、デザイナーを夢見てスタイル画を学ぶ一人の少女が「リボンの騎士」を姉妹や友達と奪い合って読んでいました。ある日少女が目をとめた新聞記事に載っていたのは、昭和二十八年の関西所得番付。画家の部第一位の手塚治虫の経歴を読み、少女の一家は腰を抜かさんばかりに驚きました。
 本名・手塚治、父親・手塚□(ユタカ)、なんと有名な漫画家・手塚治虫は音信不通になっていた親戚の手塚家のお兄さんだったのです。そして、少女・岡田悦子はやがてこの親戚のお兄さんと見合い結婚で結ばれることになるのです。
 二人のデートはさんざんでした。一緒に映画館に入っても、前座のディズニーの短編映画が終わると、手塚は先に帰宅。仕事の事が気になって観ていられなかったと言うのです。ゆっくり話をしようと喫茶店に入れば、そこで居眠り。悦子さんはただ黙って寝顔を見つめるだけでした。それでも、結婚を決意したのは、手塚がアニメを語る時の情熱に打たれたからだと言います。
 「将来はね、アニメスタジオを建てて、自分のアニメーションを作りたいんですよ」
 身振り手振りをまじえて、アニメの構想を語り続ける手塚。それは悦子さんには想像もつかない大きな夢を抱える男の姿でした。後年、その著書『夫・手塚治虫とともに』の中で悦子さんは夫の事をこう語っています。
 「私にとっての手塚は、いつでも《陽のあたる大樹》でした。私はその木洩れ日の中で生きてきたように思います」
 大きく豊かに枝を広げたブラウンの大樹。それはまさに多くの人を魅きつけ、大きな夢に向かって伸びゆく手塚そのもの。そしてその根は、悦子さんの胸にいつしかしっかりと根を下ろしていたのです。

 「アニメってのはアニミズムから来ているように、生命のないものに生命を与える芸術でしょう。つまり人間の筆の先で生み出したものが、生きてるように色もつくし、声も音も出す。さらに自由自在に動いて、あり得ない動きまでするわけでしょう? 一種の造物主の優越感みたいなものを描いてて感じるわけ。と同時に、自分がこれに生命を与えたという事がすごく楽しいんです」
 結婚後わずか二年で、手塚はマンガで稼いだお金を全て注ぎ込み、虫プロを設立。アニメの制作にとりかかりました。目標はディズニーの音楽アニメーション《ファンタジア》。1930年代の終わりに作られたこの作品は、クラシックの名曲の一音一音に合わせてキャラクターが歌い踊り、実写とアニメーションのキャラクターが共演するという、当時としては例を見ない偉大な実験作品でした。映像と音楽が一体となり、言葉の壁を越えて世界中で愛される芸術的なアニメ作品を夢見た手塚は、一年がかりで《ある街角の物語》を制作。昭和三十七年十一月五日に開かれた「第一回虫プロダクション作品発表会」にて公開しました。物語は、街角の壁に仲良く貼られた沢山のポスター達が主人公。しかし、ある日突然戦争の影が忍び寄り、独裁者のポスターがあたりを睥睨。街角は戦火に包まれ、恋人同士だったバイオリニストの青年とピアニストの少女のポスターが炎の中で悲しく宙に舞うという、詩情にあふれた物語でした。セリフはなく、動きも押さえがちな演出ながら、全編音楽があふれ、手塚は一歩夢への階段を昇ります。しかし商業ベースに乗らず、制作費のかかる芸術的なアニメ作品を作り続けるには、漫画の原稿料ではとうていまかないきれず、スタッフの人件費を支えるためにも、金を稼ぐ《商品となるアニメ》が必要でした。
 そこで手塚は、それまで誰もが不可能だとあきらめ、手をつけることのなかった週一回、三十分のテレビアニメ制作に手を出しました。それまで、日本のアニメーションのパイオニア的存在だった東映動画に通い、何本かの作品に携わっていたとはいえ、手塚は商業ベースのアニメ制作など素人同然でした。おまけに作品の構想は全て、手塚の頭の中。アニメ制作の設計図となる絵コンテすらなく、一体どんなものを作ろうとしているのか、スタッフですら想像もつかないという変則的な制作形態。リーダーが天才・手塚治虫であるがゆえにスタッフも苦しみました。結局漫画の締め切りから解放されるのを待って手塚に原画を描かせ、四日五日と徹夜を重ねて動画を仕上げ撮影に回すという繰り返し。見るに見かねて悦子さんし手塚にこう忠告しました。
 「マンガだけでも大変なのに、こんなに手を広げてどうするのですか!」
 この時、いつもは穏やかな手塚がはじめて怒鳴りました。
 「男の仕事に女が口をだすな! 淀君」
 悦子さんは、頭のてっぺんから足元へ、稲妻が走り抜けたような衝撃を受けたと言います。男は一生やりたいことをやりぬく。私は、それについてゆくしかないと…。
 そして、これ以上は無理という殺人的なスケジュールを重ねて、作品は完成しました。それが、昭和三十八年一月一日にオン・エアされた国産テレビアニメ第一号「鉄腕アトム」です。
 思うように動かせなかったところもいくつかあり、不安を抱えながらの放送でしたが結果は大好評。「空を越えて、ラララ星のかなた〜」という谷川俊太郎作詞の主題歌はいつしか子供ばかりか大人までもが口ずさむようになりました。
 しかし、その裏で制作の実状は悲惨さに拍車をかけて居ました。次から次へと過労で倒れるスタッフ、このままでは死んでしまうと逃げだす者も居ました。その厳しい制作態勢に対して支払われる放送局からの支払いは微々たるもの。金の卵を生むはずのテレビアニメは、恒久的に赤字を生み続ける存在になってしまったのです。さらに手塚は忙しさのあまり、書類によく目を通さずに判を付き決済することも度々ありました。「マンガの神様」もアニメ会社の経営には素人。気づいた時にはどうにもならず、昭和48年、四十億の負債を抱えて虫プロは倒産。悦子さんは手塚に懇願しました。
 「アニメはもうこりごりです。あなたはマンガ一本でも立派に食べていけます。アニメはあきらめて元の漫画家に戻って下さい」
 新婚当初から、家族だけでなくアシスタントやマンガ編集者の食事の準備までこなし、五百人にふくれあがった虫プロ社員の世話に追われ続けた妻、夫の夢をためとはいえ、家族一緒に食事をとることさえかなわなかった日々。皮肉なことに借金返済のため自宅とスタジオを手放すことで、結婚以来初めて家族水入らずの生活ができるようになりました。結婚○年目、夫妻の間には長男真、長女るみ子、次女千以子、三人の子供が誕生していました。
 その後、手塚は仕事を漫画一本に絞り、数々の名作を生み出しました。無一文になっても、ベレー帽からあふれ出るアイデアこそが手塚治虫の財産。「ブラックジャック」「三つ目がとおる」次々と新しいジャンルの漫画を開拓したのはこの頃のことです。相変わらず締め切りに追われ、週に一度しか帰れない手塚。それでも家族の記念日には、温泉旅行や食事などさまざまな遊びのプランを練り、わずかにすれ違う日々のちょっとした時間に妻へのねぎらいの言葉を欠かしませんでした。
 「家の掃除や、庭の草むしり。専業主婦として、当たり前のことをしているだけなんですけど、『ごくろうさま』『いつもありがとう』と、やさしい言葉をかけてくれました」
 悦子さんにとって夫・手塚治虫は、激しい風に巻き込まれてもビクともしない大樹。時折かけてくれるあたたかい一言は、まるで木洩れ日のように心にしみこみました。
 しかし、どんなに本妻をねぎらっていても、手塚の心の中に棲みついた永遠の恋人・アニメーションへの情熱は、決して消えたわけではなかったのです。

 昭和53年、手塚の元にテレビ初、二時間の長編スペシャルアニメの企画が舞い込みました。統一テーマは、《愛は地球を救う》。これは、手塚の終生追い続けたテーマでもありました。どうしてもアニメの夢を捨てられない。こうして七年ぶりに手塚はアニメ制作を再開。完成した「バンダーブック」は《環境破壊への警告》が込められ、それからは毎夏、放送一ヶ月前からアニメスタッフ全員徹夜続きの奮闘が恒例となりました。手塚にとっては、再び雑誌連載とアニメーション制作、二足のわらじを履く日々が始まったのです。本妻と愛人に責め立てられ、寝る間を削って創作を続ける毎日。家族の為の時間は無いも同然でした。
 さらに、ディズニーの世界を目指す手塚が取り組み始めたのは、プライベートな実験アニメの制作。自分の作品を海外に出すという夢を抱いて、全く新しい構想のアニメに取り組み始めたのです。
 その第一作が《ジャンピング》。通りで遊んでいた主人公がスキップするうちにエスカレートし、いつ果てるともしれないジャンプを繰り返す状況が、全て主人公の主観で描かれたもの。やがてジャンプする視点は、街の中、洋上、さらには戦争のまっただ中、最終兵器が炸裂する煉獄の炎の中へと跳ねて行ってしまうのです。わずか六分半ながら、全編切れ目なしのワンカット・フルアニメーション。四千枚にも及ぶ動画が描かれました。手塚はこの作品で、1984年第六回ザグレブ国際アニメーション映画祭のグランプリとユネスコ賞を獲得。
 「なんかひとつぐらい、すみっこの賞でも取ってくれれば慰めになるとおもっていた。それがグランプリとは…!」
 実にアニメを作り始めて、二十二年目の快挙。これを励みに手塚はさらに、アニメ本来の持つ動きの面白さや、自由な表現を追求し始めました。
 翌年には、五分半の実験アニメ「おんぼろフィルム」を制作。これは、子供の頃に見たサイレント漫画映画へのオマージュとも言える作品で、昔々の西部の物語。悪漢相手の魔の手から美女を救うためカウボーイが大活躍するのですが、フィルムがあまりにおんぼろなため、画面がブレて主人公がコマのフレームからはみだす、雨の降るようなキズに邪魔され美女とキスも出来ない。実はこれ、作品の古さを強調するためにフィルムにキズやゴミを合成してわざと汚したもの。全編ギャグにあふれたノスタルジックな作品で、そのフィルムの色は日に焼けたセピア、あのなつかしい茶色でした。誰の心にも共通する、やさしく温もりのある茶色のオマージュは全ての世代に絶賛を博し、上映会場は万雷の拍手に包まれました。そして、「おんぼろフィルム」は、第一回広島国際アニメーション映画祭のグランプリに輝いたのです。
 こうして手塚は悦子夫人との二人三脚で、長年追い求めたアニメの世界で国際的な評価を受けることができました。幼い頃父親が持ち帰った8ミリフィルで見たセピア色のアニメに感動した手塚が、長い旅を終えてその原点に還ったのです。

 やがて手塚は、苦労をかけた妻へねぎらいの気持ちを込めて、新たな漫画の企画を温め始めました。
 「僕の奥さんから見た手塚治虫の一代記を考えています。僕と奥さんがお見合いをするところから始まってね、主婦の目から見たアニメというものを、マンガに描いてみたい。アニメというものが、危険に満ちた世界であることを知りながら、それを続ける夫を見て、あきれ果てながらも、引きずり込まれていく主婦…。長い長いメロドラマですよ」
 しかし、その作品は遂に形になりませんでした。悦子さんに「今年は最良の年にしようね」と誓った平成元年二月、手塚治虫は癌でこの世を去りました。昭和という年の後を追うように…。

 それから一年後の平成三年四月、ラフォーレ原宿で「私のアトム展」が開催されました。それは、絵画、イラスト、グラフィックデザイン、人形、CG、音楽など111名のアーティストが創作したアトムの展覧会。プランニングは手塚るみ子、そう広告代理店に勤める手塚治虫の長女・るみ子さんでした。
 狭いスペースにぎっしりと並べられた111のアトムはいずれも力作ばかりでした。なぜならば誰もが感性のもっともやわらかな時期に手塚治虫の世界に出逢い、アトムと共に育ち、それがいつしか血となり肉となってここに並ぶ作品に結実したのです。その感謝の思いが一つ一つの作品から伝わってきて、胸が熱くなりました。
 サザエさんは多くの人に読まれたけれど、人の生き方を変えるほどの影響力は持たなかった。手塚治虫は国民栄誉賞こそもらわなかったけれど、数多くのアーティストを生み落とした。

 《陽のあたる大樹・手塚治虫》

 その大きな茶色い樹は、今も私たちの心の中にしっかりと息づいています。

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きよとびきのよもやまぐたぐた [第1回]


KIYO:もうそろそろ神戸も梅雨明けなんやけど・・・今年は梅雨入りする前から雨が多くて、ここ数カ月ずっと雨がふっているような気しとるんや。梅雨明けしたからと云って 、あの少年の頃に見たようなスカッとした青空、入道雲という天気が来るようなイメージがあらへん。

BIKI:カリフォルニアもやっとエルニーニョが終わって「青い空」がやってきたで。まあ、昔の夏のイメージっちゅうのは、冷房がない生活だからってのもあるんやろうけどな。カリフォルニアはカラッとしていて、気持ちええで。

KIYO:このジトジトしたイメージは連日の日本政府の景気対策にも責任があるんや。公的資金と云うやつを30兆円も使ってあのバブル期の不良債券を正常化させるとかゆうとる。国民一人頭、25万円も払うそうや。なんでバブっていた時に好き勝手やって、こさえた金融システムさんの借金に大金出したらなあかんねやろ?

BIKI:まあ、ここに至るまでおとなしかった国民をずーっとバカにし続けとるっちゅうことやろな。大体、大手銀行や証券が倒産する寸前まで、これまでと変わらない給料を払い続けて、突然「倒産しました、だから税金使わせて!」っちゅうのは許される話やあらへんわな。中小企業やったら「ここ数ヶ月給料支払いは遅れるし、ボーナスはでないし」という過程を経て倒産するもんや。

KIYO:仮にこの景気対策が当たって景気が戻ったらお金返してくれるんやろか?そんな、国どこ探してもあらへんわな〜。

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** 写真は前号は間に合わなかった「明石大橋の前のKIYO」です。

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[Short Short]

安眠枕

 勢川びき

 「吉村君!」
明子は、椅子から飛び上がるようにして振り向いた。
 「は、はい、課長」
 「なんかボーっとしてないか?しっかりしろよ!この不況時に!君の代わりなんていくらでもいるのだからな!分かったか!吉村君!」
 そう言って課長は自分の席に戻っていった。
 お辞儀の格好で固まったまま明子は思った。「なんとかしなきゃ」と。

 課長が怒るのも無理がなかった。机に向かったまま明子は殆ど気を失っていた。目は開けていたが寝ていた。
 原因は分かっている。夜、全く眠れないのだ。眠れない原因も分かっている。身分不相応のおしゃれや生活にあこがれて、気が付くと借金地獄に陥っていたのである。知らず知らずに借金が雪だるま式に増えていったのだ。
 もともとは明るく愛敬のある顔立ちで、男性からモテていた。しかし、不眠症になってからは明子から次から次にと男性が離れていってしまった。打ち合わせたように全員が「最近暗くなったね」と言い残して。その前までは、「本命は誰にしようか」と悩んでいたのが、今は嘘のようだ。
 会社での立場も危なくなってきた。仕事にならないのである。この上クビになってしまっては、借金を返す当てが全く無くなってしまう。

 「なんとかしなきゃ」
 明子はすっかり暗くなった道を独り言を言いながらフラフラと歩いていた。残業代を稼ごうとして、遅くまで会社にいて、会社を出たのは深夜であった。
 夜になると眠いのに変に目が冴えて来る。
 このままでは今夜も眠れそうにない。
 頭の中は借金と不眠に対する恐怖が渦巻いている。
 酒でも飲みたいところだが、金が殆どない。
 気が付くと、知らない路地を歩いていた。夜も遅く、殆どの店が閉まっていて、余計に夜道が暗い。その中で、一軒だけ、煌煌と輝いていた。明子は引き寄せられるようにその店に足を向けた。
 『眠れないアナタのための店』
 「そうなのよ、眠れないのよ」
 明子は看板に向かってつぶやいていた。

 店内は心地よい明るさだった。店長らしき男性が明子を見てニコッと微笑み、
 「どうしてこの店はこんな時間まで空いているのか不思議ですか?眠れないアナタを待っているからですよ」
 そういって、尋ねもしないのに商品の説明を始めた。
 「実はウチは安眠枕一本で商売しているのです。不眠を解消する方法としては、睡眠薬や入浴剤、環境音楽、など色々ありますが、この新発明の安眠枕ができてからは、あまりの効果に、他の商品が必要なくなって、今はこれ一本でやっています」
 そう言って、見た目は普通の枕をカウンターの上に差し出した。
 「と言っても、中々信じていただけないでしょうから三日間の無料貸し出しをやっています。その後、気に入っていただければお買い上げいただくということにしています」
 金のない明子に「無料」という言葉は輝いて聞こえた。しかし、もし、本当に効果があったとしたらその後欲しくなる。
 「ちなみに買うといくらでしょうか?」
 おそるおそる聞いてみた。
 「それが、このタイプだとたったの三千円なんですよ。よく売れているのでサービス価格です」
 三千円だったら何とかなるかもしれない。明子は無料貸し出しをお願いして枕を持って帰った。

 一日目----。
 枕に頭を乗せた途端、「あれ?」「あれ?」という感じで眠気が襲ってきて、気が付くと朝だった。信じられなかった。何日ぶりの熟睡だろう。

 二日目----。
 三回ほど夜中に目が覚めてしまったものの、熟睡できた。夜中に寝返りを打って、頭が枕から外れたのだ。会社の仕事も快適にこなせた。課長も文句を言いに来なくなった。

 三日目----。
 十回以上夜中に頭が枕から外れ、目が覚めてしまった。また仕事のミスが増え始めた。

 三日間が過ぎたので、取りあえず店に枕を持っていった。
 「どうですか、よく眠れたでしょう」
 店長は相変わらずニコニコしている。
 「ええ、信じられないくらい。これ、いただきますわ。   でも、段々と枕から頭がずれて目が覚めることが多くなってきたのですけど」
 「ははぁ、あなたにはその副作用が出ましたか。滅多にないのですけどね。たまに人によって寝相がどんどん悪くなっていくことがあるのですよ。実は、そんな方のために------」
 店長は、カウンターの上に一回り大きい枕を取り出した。
 「これだと、多少動いても大丈夫ですよ。お値段は三万円ですけど」
 明子は十倍の値段を聞いて、真っ青になった。十日もすればこの枕が必要になるかもしれない。
 その時、奥の暖簾が揺れて、中から明子と同世代の女性が出てきた。ふと、明子と目が合ったが、その目の回りは不眠症を明確に表すクマで覆われていた。その女性はかなり大きい枕を抱えていた。
 「ありがとうございます。またどうぞ」
 暖簾の奥から別の店員の声が聞こえた。
 枕も借金も雪だるま式に大きくなる道に足を踏み入れてしまったようだ。
          (おわり)
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* 先先月号に掲載した「どうぶつむらのぎんこう」が久々に小説現代(7月号)のショートショートコンテストに入選しました。Yappa、嬉しい。今年に入って何とか毎月書いています。

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