勢川びき
2000年11月5日

No.67 「江実が死んで・・・雑感」

 前回のNo.66を書いた10月28日の時点では、事実を羅列することしかまだできませんでした。江実の逝去から十日以上たち、当時思っていたこと、考えたことも文字にすることができるようになりました。


 (1999年11月20日撮影)

 江実が死んでから、私自身、自分の性格が変わったと感じています。
 それまでは、しょっちゅうつまらないことに腹を立ててキレていたのですが、そういうことがなくなりました。前を走っている車がトロくても、なくしたものが見つからなくても、怒らなくなりました。「これも人生だよなあ、いろいろあるから楽しいんだよなあ」と思ってしまいます。尤も、妻は「いつまで続くのやら」と信用していませんが。


 (2000年1月2日撮影)

 江実は10月24日午後4時45分ごろに逝ってしまいました。
 今、考えると、10月24日という日と午後4時ごろという時間は江実自身がとてもよく考えて決めたような気がしてなりません。もちろん、たまたまであると科学的思考では思うのですが。

 その日の担当看護婦はElisaでした。
 Elisaは江実を看てきた多くの看護婦さんの中でも最も仕事としても人間としても信頼できる人です。江実もElisaのことはとても好きなようでした。そのElisaも最近は直接江実を担当することがなかったのですが、この日は担当でした。あたかも江実はElisaをその日の看護婦に選んだように思えます。
 また、前日の夜はとってもはっきり起きていて、私の目を見詰めて目で沢山のお話をしてくれました。これがお別れの言葉だったと今も思っています。

 もし、二週間前に危篤になっていたら、私は日本出張中でした。そういうことがあっても全然おかしくない状況でした。当時はそんなことは毛頭思っていませんでしたが。
 また、一週間前にこの日の状態になっていたら、私の仕事の山場と重なり、とても困った状況になったはずです。もしかしたら死に目に会えずに終わってしまったかもしれません。あたかも江実は私の状況をちゃんと把握していて、待っていてくれたように思えます。

 当日も、亡くなったのは夕方で、朝訪れた私たち夫婦にだっこする時間を与えてくれたり、江実に話しかけたりする時間をたっぷりくれました。深夜ではなかったので、亡くなった後もゆっくりとその日に病院で行わなければならないことを行え、私たち夫婦は長女を迎えにいった後まともな時間に帰宅でき、江実への感謝の気持ちをこめて妻とワインを飲むことができました。そして、なんとか寝ることができました。このため、その後私たち夫婦は体調を崩したりすることはありませんでした。

 江実は最後の最後まで、とっても親孝行な子でした。


 (2000年4月15日撮影)

 まだ十日しか経っていないのに、私の中で江実の人生での様々な出来事の時間感覚がおかしくなってきています。一年一ヶ月とちょっとの人生の風景が、どれも同じ一点の時間のなかで起こったような錯覚を感じます。どの記憶も同じように新しく、同じように古いのです。
 江実が生まれて私がへその緒を切った瞬間と、江実を見とって号泣した瞬間が、どちらも同じくらい昔に起こった風景のような気がするのです。
 江実の人生があまりに短かったのがその主な原因でしょうが、私にとってあまりに沢山の強烈な「初めての経験」を江実がさせてくれたため、時間軸が記憶の中では重要でなくなってしまっているような気もします。「人の誕生に立ち会う」「人の死に立ち会う」・・・この二点だけでも江実だけがこれまでの私の人生での経験です。
 私にとって、江実はとても眩い輝きを放っています。


 (2000年5月6日撮影)

 長女にも江実が死去したことは二日後に伝えました。
 しかし、最近、長女は「生き物が死ぬ」という意味を少し理解しはじめたばかりなので、「死」という言葉を使えませんでした。「江実は天国へ行った」「江実ともう会えない」という二点だけを説明しました。
 長女はその後、誰から聞いたのか「江実は私のハートの中に住んでいる」とか、「江実は死んじゃったんだよね」とか言うようになりました。周りの人からの言葉で彼女なりに理解していっているようです。と、思えば「でもね、大人になったら大人になった江実に会えるかもね」と言ったりします。私は、その時は明確に「もう会えないんだよ」と言っています。ところが、昨夜、江実が生きていて私に会う準備をしている夢を見ました。なんか「四次元空間での時間の歪が死の意味を超え死んだはずの江実は死んでいないのだ」みたいなSF的設定でした。私の頭の中も深い所では4歳の長女と変わらないようです。


 (2000年6月19日撮影)

 私は自分のことを、とても論理的な人間で、激情的な部分は非常に薄いと思っていました。
 江実に関しても、頭で状況を理解し、頭で自分の行動を規定し解釈しようとしてきたと思います。ドクターたちとのミーティングにおいても、横では妻が言葉を発せず涙を目に溜めているのに、私は下手な英語でぺらぺらと冷静な判断を述べている、ということばかりでした。妻からミーティング後に「よくそんなに冷静でいられるね」と何度か言われたことがあります。私は「基本的には冷たい人間なんだろうね」と答えていました。
 江実を産むことを決めた時から、もし江実が幼くして死んでしまったら号泣するだろうなあ、という予想はしていましたが、実際、自分でもびっくりするくらい号泣し嗚咽が止まりませんでした。その様子を見た妻は、一瞬ちょっと冷めてしまったようです。いわゆる「泣いた者勝ち」というやつです。
 人間、いかに自分のことが分かっていないのか、ということを改めて思いました。私も単に冷たい人間ではなく、論理的な表層の奥深くには沢山の涙をしっかりと溜めこんでいました。
 大人になって初めて本当に泣いたような気がします。
 とても変な感触で、頭部が涙でいっぱいになってしまったような感じで、ちょっと何かあるだけで、涙がポロポロと押し出されてしまうのです。
 それが、日が経つにつれ、その涙の塊が頭部からだんだん下がっていき、喉、胃、下腹部へ沈んでいきました。そして、いつものように簡単には涙がでなくなりました。


 (2000年7月31日撮影)

 江実はとっても堂々と、潔く死んでいきました。
 精一杯生きることに力を注ぎ、ぱっと死んでいきました。
 死にたくない、と泣き叫ぶこともありませんでした。
 人間以外の動物と同じように「死」ということを全く意識したり理解したりできなかったと言えばそれまでですが。
 「じゃ!」と言って、ぱっと死んでいきました。

 私たち両親にとって、このことはとても大きな救いでもあり、自分の生と死についても考えさせられました。


 (2000年8月27日撮影)

 今、考えると、私はとても能天気でした。
 論理的には江実が死んでしまう可能性が高いことは分かっていても、心の中では、いつも大きくなった江実がいました。
 一歳までの人生で、これだけの病院生活を送り、大変な手術を受け、普通の赤ん坊ではありえないくらい多くの人々に接した江実が、大きくなったとき、どういう人間になるのかが楽しみでした。
 一方で、心臓が悪いので体の発育が悪く、車椅子生活になってしまうのではないかなあ、とか、好きな人が現れて、体に沢山残っている手術跡で悩むのではないかなあ、というような心配もしていました。 好きな人はきっと江実のことを愛してくれて、子供ができたら素晴らしいなあ、とも思っていました。


 (2000年9月15日撮影)

 江実が生まれた1999年のカリフォルニアワインを買って、江実が成人した時に一緒に飲もう、と計画していました。
 まだ1999年の赤ワインは出荷されていません。かなわぬ夢となりましたが、これから買って、やっぱり20年後に飲もうと思います。

 そして、「江実、ありがとう」とグラスを傾けたいものです。



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