速い!

勢川びき
1998年3月

 百メートル、8秒53。
 これが現在の人類の記録であった。
 ほんの十年ほど前まで殆どのスポーツで全く世界新記録が生まれない時代が長く続いた。そして、全世界スポーツ委員会は、停滞する記録を打破するため、激しい議論の末、とうとう薬物使用を認めたのだった。その後の十年間は毎月のように記録が次から次に塗り替えられていった。

 そして、この4年に一度の世界大会---。
 純粋なスポーツの闘いであるのと同時に、その裏では、各国が抱える様々な事情による国と国、企業と企業の闘いの場でもあった。
 特に薬物使用が解禁されてからというもの、製薬会社の技術力を誇示する場として、この世界大会は注目されていた。

 今回の世界大会の主催国であるA国は、2年前の軍事クーデターで権力を握った独裁政権だった。A国にとって、この世界大会で優秀な成績を収めることは、世界からの批判を少しでも交すために非常に重要であった。しかし、A国には優れた製薬会社はなく、最後のこの種目まで一人も優勝していなかった。

 百メートル、8秒53。
 これが現在の人類の記録であった。
 この記録は、先ほど行われた準決勝でB国の選手が出したものだった。もちろん、この選手は、B国の製薬会社の最先端の薬を使用しており、理想的な体格をしていた。
 いよいよ行われる決勝を前に、控え室ではA国のトレーナーが選手に耳打ちをしていた。
 「ダジャ、ここまでのところは、全く計画通りだ。準決勝まで全て2位で通過。これで、本当の実力を知られていないお前をマークするやつはいないだろう。さあ、最後の決勝だ。もう遠慮することはない。思いっきり走れ」
 ダジャはトレーナーの言葉が全く耳に入っていないような表情で遠くを見つめていた。
 ダジャの両手には頑丈な手錠がはめられ、その先には大きな重りが転がっている。

 今から1年前---。
 世界大会開催を無理矢理勝ち取ったA国は、何とか一種目でも優勝したいと、地球の反対側にあるX国に特別調査団を派遣した。 特別調査団の目的は「優勝できる素質を持った人間を連れてかえること」、つまり「誘拐」だった。 X国は、この時代、大自然が残る世界で唯一の国だった。A国が入手した情報によると、X国の山奥深く、とても人間わざとは思えない運動能力を持った種族が住んでいるという。もしかすると、この種族の人間ならば、薬を使わなくても勝てるかもしれない---。
 長い調査の末、彼らはやっとその種族を見つけ、多くの科学最新兵器を駆使して、その種族の一人を捕獲した。それが、ダジャだった。
 ダジャは期待を裏切らず、信じられないほどの運動能力を持っていた。しかし、たった1年以内で、難しい競技を習得することは不可能だったため、A国はダジャを百メートル走に出場させることにした。

 ダジャの運動能力はA国にとっても脅威だった。いつ逃げ出すか分からない。そのため、手錠と重りが必要となり、この世界大会では、競技場のトラックの周りも十メートル以上の特別な壁で囲うこととした。
 「行け。ダジャ。A国万歳!」
 トレーナーはダジャの手錠を外した。もちろん、控え室では多くの兵士が銃口をダジャに向けたままである。ダジャは逃げようともせず、ゆっくりとトラックに出ていった。
 すごい歓声である。
 観客はこの決勝で再び世界新記録が出ることを確信して熱狂している。

 選手がスタートラインについた。
 ダジャはまだ遠くを見つめたままである。
 「パパ、そろそろ帰るよ」
 ダジャが小さくつぶやいた。
 パン!とスタートの合図の音がして、選手が一斉に走り出した。
 しかし、その直後、ダジャ一人が大きく抜け出していた。とんでもないスピードである。五十メートルを3秒で駆け抜けた。
 美しく伸びる足が、ますます長く見え、飛ぶように加速していく。
 他の選手がやっと五十メートルを通り過ぎたころ、ダジャはゴール寸前に来ていた。
 そして---飛んだ。
 ゴールに備え付けられていた計測器の頭上を飛んでいった。そのため、記録は計測されなかった。
 すごいジャンプ力である。しばらくして右足が軽く地面に触れた途端、再び大きくジャンプした。
 そして、ダジャはそのまま十メートルの特別な壁だけでなく、大歓声の観客席のはるか上空を飛んでいき、競技場の外に消えた。

 ダジャはA国内を走り抜け、そのまま海に飛び込み、イルカよりも早く泳ぎ、X国のある大陸にたどり着き、多くの国を走り抜けた。
 速い。
 速い。
 とにかく速い。

 そして、懐かしい我が村に帰ってきた。
 我が家はそのままだった。
 「ただいま」
 ダジャは、ちょっとはにかんで挨拶した。
 振り返った父親は何も無かったようにつぶやいた。
 「遅かったな」

[おしまい]


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