歯イテク

勢川びき
1999年5月


 前歯が折れてしまった。朝、起きてみたら折れていたのだ。二日酔の頭では、昨夜どうやらチンピラと喧嘩したらしいということをぼんやりと思い出すだけだ。顔じゅう痣だらけである。
 歯医者なんて、何年ぶりだろう。電話帳で探して、家から一番近い歯医者を予約した。

 「いらっしゃいませ。当店では、様々な義歯を揃えております」
 白衣を着た医者が愛想よく出迎えた。
 「あのー」
 「喧嘩ですか?それでしたら、この『パワーアップ義歯』はいかがでしょう」
 「はあ?」
 「雑誌などで最近はよく紹介されていますが、スポーツ選手などがよく使っています。歯は体全体のバランスに大きく影響するだけでなく、一瞬の内に発揮するパワーにも大きく関係していることが最先端医学からも明らかになっています。その原理を応用したのがこの義歯で、喧嘩してもそこまで殴られることは無くなりますよ。きっと」
 しばらく歯医者に来ていないうちに、この業界にもハイテクの波が押し寄せてきているようだ。
 「いえ、喧嘩はそんなにするほうではないのですが」
 「そうですか。では、これはいかがですか?あなたは独身でしょ?」
 独身かどうかが歯医者に何の関係があるというのだろう。
 「この『モテモテ義歯』を使えば、声がとってもセクシーになって、その上、にこっと笑った時に、この歯から特殊なレーザー光線が発射されて、相手の女性は一種の催眠状態になって、あなたにフラっとする効果があります」
 本当だとしたら、かなり魅力的な義歯だ。
 「お値段はちょっと高めですが、理想の女性を手に入れられるのですから、長い目で見れば、決して高くありませんよ」
 手が届かないと思って諦めている会社の女性の顔が浮かんだ。
 「それとも、この『口臭さよなら義歯』はいかがですか?イオン発生装置が組み込んであって、さわやかな口臭になります。失礼ですが、あなたには少し口臭がありますので。さきほどの『モテモテ義歯』よりはだいぶ安くなっていますよ。女性にもてるためには最低口臭くらいはなんとかしませんとね」
 そうかもしれない。
 「それと、まだあなたとはあまりお話していませんが、少し訛りがありますよね。こちらの『標準語義歯』はいかがでしょうか」

 あまりに次から次へと聞いたこともない義歯を紹介されて、呆気にとられていた。
 「あのー、でも折れた歯はこの前歯一本だけですし。あれもこれもという訳には……」
 「なにも折れた歯だけしか義歯にしてはいけないという法律はありません。お好みによって何本でも素晴らしい義歯に取り替えられますよ。皆さん人には言いませんが、とっても沢山の方々がこのような義歯を使われて幸福をつかんでいらっしゃいます」
 それからも多くの特殊義歯を紹介された。

 そして、4本の義歯を購入することになった。自分の給料から考えるととても大きな買い物だ。
 「じゃ、今日は最初の一本だけ入れますね。後は一週間ごとに2本目、3本目と入れていきましょう」
 「……ありがとうございます」

 そして、受け付けで契約書を書き、大柄な男性の受け付け担当に渡そうとした。
 「あの、ふと思ったのですけど、先生自身は何か義歯を使われているのですか?」
 その大柄な男性に聞いてみた。
 「ええ、『もうかりまっせ義歯』を使っていらっしゃいます」
 そう言いながら契約書を受け取ろうとした大柄な男性の手は包帯が巻かれていた。そういえば、昨夜、この男の顔を見たような気が……。
(おわり)

[おしまい]


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