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安眠枕

勢川びき
1998年6月

 「吉村君!」
明子は、椅子から飛び上がるようにして振り向いた。
 「は、はい、課長」
 「なんかボーっとしてないか?しっかりしろよ!この不況時に!君の代わりなんていくらでもいるのだからな!分かったか!吉村君!」
 そう言って課長は自分の席に戻っていった。
 お辞儀の格好で固まったまま明子は思った。「なんとかしなきゃ」と。

 課長が怒るのも無理がなかった。机に向かったまま明子は殆ど気を失っていた。目は開けていたが寝ていた。
 原因は分かっている。夜、全く眠れないのだ。眠れない原因も分かっている。身分不相応のおしゃれや生活にあこがれて、気が付くと借金地獄に陥っていたのである。知らず知らずに借金が雪だるま式に増えていったのだ。
 もともとは明るく愛敬のある顔立ちで、男性からモテていた。しかし、不眠症になってからは明子から次から次にと男性が離れていってしまった。打ち合わせたように全員が「最近暗くなったね」と言い残して。その前までは、「本命は誰にしようか」と悩んでいたのが、今は嘘のようだ。
 会社での立場も危なくなってきた。仕事にならないのである。この上クビになってしまっては、借金を返す当てが全く無くなってしまう。

 「なんとかしなきゃ」
 明子はすっかり暗くなった道を独り言を言いながらフラフラと歩いていた。残業代を稼ごうとして、遅くまで会社にいて、会社を出たのは深夜であった。
 夜になると眠いのに変に目が冴えて来る。
 このままでは今夜も眠れそうにない。
 頭の中は借金と不眠に対する恐怖が渦巻いている。
 酒でも飲みたいところだが、金が殆どない。
 気が付くと、知らない路地を歩いていた。夜も遅く、殆どの店が閉まっていて、余計に夜道が暗い。その中で、一軒だけ、煌煌と輝いていた。明子は引き寄せられるようにその店に足を向けた。
 『眠れないアナタのための店』
 「そうなのよ、眠れないのよ」
 明子は看板に向かってつぶやいていた。

 店内は心地よい明るさだった。店長らしき男性が明子を見てニコッと微笑み、
 「どうしてこの店はこんな時間まで空いているのか不思議ですか?眠れないアナタを待っているからですよ」
 そういって、尋ねもしないのに商品の説明を始めた。
 「実はウチは安眠枕一本で商売しているのです。不眠を解消する方法としては、睡眠薬や入浴剤、環境音楽、など色々ありますが、この新発明の安眠枕ができてからは、あまりの効果に、他の商品が必要なくなって、今はこれ一本でやっています」
 そう言って、見た目は普通の枕をカウンターの上に差し出した。
 「と言っても、中々信じていただけないでしょうから三日間の無料貸し出しをやっています。その後、気に入っていただければお買い上げいただくということにしています」
 金のない明子に「無料」という言葉は輝いて聞こえた。しかし、もし、本当に効果があったとしたらその後欲しくなる。
 「ちなみに買うといくらでしょうか?」
 おそるおそる聞いてみた。
 「それが、このタイプだとたったの三千円なんですよ。よく売れているのでサービス価格です」
 三千円だったら何とかなるかもしれない。明子は無料貸し出しをお願いして枕を持って帰った。

 一日目----。
 枕に頭を乗せた途端、「あれ?」「あれ?」という感じで眠気が襲ってきて、気が付くと朝だった。信じられなかった。何日ぶりの熟睡だろう。

 二日目----。
 三回ほど夜中に目が覚めてしまったものの、熟睡できた。夜中に寝返りを打って、頭が枕から外れたのだ。会社の仕事も快適にこなせた。課長も文句を言いに来なくなった。

 三日目----。
 十回以上夜中に頭が枕から外れ、目が覚めてしまった。また仕事のミスが増え始めた。

 三日間が過ぎたので、取りあえず店に枕を持っていった。
 「どうですか、よく眠れたでしょう」
 店長は相変わらずニコニコしている。
 「ええ、信じられないくらい。これ、いただきますわ。---- でも、段々と枕から頭がずれて目が覚めることが多くなってきたのですけど」
 「ははぁ、あなたにはその副作用が出ましたか。滅多にないのですけどね。たまに人によって寝相がどんどん悪くなっていくことがあるのですよ。実は、そんな方のために------」
 店長は、カウンターの上に一回り大きい枕を取り出した。
 「これだと、多少動いても大丈夫ですよ。お値段は三万円ですけど」
 明子は十倍の値段を聞いて、真っ青になった。十日もすればこの枕が必要になるかもしれない。
 その時、奥の暖簾が揺れて、中から明子と同世代の女性が出てきた。ふと、明子と目が合ったが、その目の回りは不眠症を明確に表すクマで覆われていた。その女性はかなり大きい枕を抱えていた。
 「ありがとうございます。またどうぞ」
 暖簾の奥から別の店員の声が聞こえた。
 枕も借金も雪だるま式に大きくなる道に足を踏み入れてしまったようだ。

[おしまい]


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