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果てしなき雑草

勢川びき
1998年7月

 泰三はいつものように静かに床を抜け出した。隣の部屋では妻の啓子が静かに寝息を立てているはずだ。まだ朝は早い。台所へ行き、昨夜セットした炊飯器の表示を確かめる。ちゃんと米は炊けている。好きな柴漬けを添えて握り飯を作る。これを抱えて庭に出る。
 「さてと」
 気合を入れるように自分に声をかける。これも毎日のことだ。脇には握り飯を入れたケースと厚めの本を抱えている。
 「雑草大百科事典」
 泰三の家の庭は広い。広いだけではない。山の斜面に通じているため、起伏も大きい。その庭に多くの雑草が生えている。いわゆる庭木や鑑賞用の花は殆どない。雑草がところ狭しと生えているだけだ。この庭が泰三の全てである。毎日の殆どの時間をこの庭で過す。
 「おっ、これは---」  泰三は座り込み、小さな雑草を観察しだした。じっくり見る。嘗め回すように見る。少し離れたり、また異様に近づいたりして見る。そして時々「うーん」と言いながら辞典をパラパラと捲る。
 「こいつか?」
 泰三は草の葉を千切り、匂いを嗅いだ。  「ぐ、たまらん。臭い。これはヤイトバナだな。別名『ヘクソカズラ(屁糞葛)』」
 そう言って、泰三は辞典のヤイトバナの項に丸い印を付けた。白いガクに鮮やかな紫の中心が映える。
 「朝飯を食ってからにすべきだったな。この草は。食欲が無くなった」
泰三は再びゆっくりと庭を散策しだした。そして「おっ、これは」と言ってしゃがみ込む。

 泰三が定年退職したのは三年前。それまで仕事一筋に生き、やっとのことで手に入れたのがこの家だった。成功したとは言えないサラリーマン生活で得られたこの田舎の家は、土地は広いものの、庭は今にも崩れそうな崖で囲まれていた。馬鹿がつくほど正直だけが取柄だった泰三は騙されたのだった。契約を結んだ時にはこの崖は造成されるはずだった。騙されたと分かった時、啓子は改めて泰三を軽蔑し、それ以来殆ど口もきかなくなってしまった。退職金を使い果たして手に入れたこの家で泰三は余生を費やすしかなかった。出かけると金がかかる。そうして、仕方なく庭いじりを始めたのだった。しかし、やはり金がないと庭いじりも限界がある。いつのころか、庭にどんどんと生える雑草を抜く代わりに、その名前に興味を持った。そして、この分厚い辞典を古本屋で手にし、新しい雑草を見つけ、辞典に印をつけることを生きがいにするようになった。

 限られた生きがい。『この庭の全ての雑草の名前が分かれば俺も人生の幕引きをしよう。』当初はそう考えていた。絶望がその根底を流れていたこの思い込みも、日が経つにつれて妙な感覚へと変わっていった。それは『もしかしたら俺は生かされているのではないか』という感覚だった。一年もすれば底をつくと思っていた「新しい雑草探し」がどうしても終わらないのだ。次から次へと新しい雑草が生えてくる。最近は、どうやらまだ日本には生息していないはずの草まで見つかるようになってきた。
 『まだ俺は生きなければならないぞ、と神様が言っているのかもしれない』泰三はそう信じるようになってきていた。

 今日も一日庭で過した。もう名前が分かっている雑草たちも旧知の友人のような気がして話しかけてしまう。
 夕飯は啓子と無言のまま過すが、それも今では苦痛ではなくなった。

 その夜---
 昼間は庭を散策して過すので、夜は深い眠りに落ちるのが普通なのだが、この日は何故か眠れなかった。じっとしていると益々目が冴えてくる。その内、庭の方でカサ、カサと音がすることに気が付いた。
 泰三はそっと起きだし、カーテンの隙間から庭を覗いた。月夜だった。
 泰三の友人たちの雑草に囲まれて女が立っている。女は奇妙は動きで手を上下に振って踊っているように見える。月の明かりで白黒の強いコントラストとなった世界の中で女が踊っている。泰三は一瞬ゾッとした。が、すぐにそれが啓子であることに気が付いた。よく見ると啓子は抱えた小さな箱から沢山の種を庭に撒いているのだった。  「啓子---」
 泰三はじーんとした。どんどん生える新しい雑草は実は啓子がこうやって種を撒いていたのだ。
 泰三は静かに窓を離れ床に戻った。とても暖かい気持ちになって。「やはり俺は生かされていたのだな」泰三は気持ち良く夢の世界に引きずりこまれた。

 啓子は、やっと今日の種まきを終えた。月を見上げながらつぶやいた。
 「もういい加減にして欲しいものだわ。雑草の種を手に入れるのも大変なのよ。あんなやつに一日中家の中にいられることを考えると、このくらいの苦労は仕方ないけど」

[おしまい]


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