たまたま

勢川びき
1999年9月

 大友は武田クリニックと書かれた看板を見上げてため息を軽くついた。
 大友は大手電気会社に勤める優秀な技術者である。少なくとも本人はそう思っている。ただ単に技術者として優秀なだけでなく、日々の生活も、人生観も全て沈着冷静に技術的視点で物を考える。全ての出来ごとは、自然界のルールに乗っ取って生じるのだ、と信じている。だから、宗教に浸って神がどうのこうのと言っているヤツは心から軽蔑している。
 そんな大友が、「運」という、いかにも自然界のルールからは反するような言葉が頭にこびりついてしまって、どうしようもなくなってしまった。

 あまりに運が悪い。

 昨日あったのは、2年付き合ってきた彼女にいよいよ結婚の申し込みをしようと思って、ダイヤモンドの指輪を奮発して買おうと思い、宝石店に行ったら、宝石強盗が押し入ってきて、宝石ケースをぶち破った途端、警報が鳴ったことに驚いた犯人が、横にいた大友を殴り飛ばし、指輪用に持ってきた現金を全て奪って逃げて行った。怪我はするし、指輪は買えなくなるし、散々だった。その上、そのことを彼女に伝えようと電話したら、「現在この電話は使われていません」とのメッセージで、自宅まで行ってみたら、引越していた。たまたま隣に住んでいた彼女の友達を訪ねたら、「彼女、好きな人ができてジンバブエへ行く、て言ってたよ」とのこと。

 今日は今日で、アパートのベランダが落ちた。上の階に住んでいる人が引っ越しのため、ピアノをベランダから降ろす作業をして失敗し、大友の部屋のベランダに激突して、ベランダが落ちた。この時、大友はやっと完成したジグソーパズルをたまたまベランダに置いていた。もちろんバラバラになってしまった。

 尋常ではない。はっきりしたデータを収集して統計的処理をするのはとても困難だが、どう考えても十万分の一以下の確率でしか起こらないようなことが次から次へと起こる。それも悪いことばかりである。これほど続くという確率は、十万分の一の十乗以下で、つまり、0が50個続いて、やっと数字がでてくるような確率であり、地球上の人類が百万人に達していない現在、そんなことが起こるわけが確率的にいうとあるわけがない状態だった。
 だから、運が悪いのか、それとも、神が意地悪しているのか、ぐらいしか考えられない。そんな考えに浸ってしまった大友は自分自身が許せなかった。技術者としては統計は信じるが、運は信じられない。
 このままではいけない、多分、精神がやられてきていて、そういう思い込みが激しくなってきているのだろう。
 そう思って、大友は武田クリニックという精神科医を訪れた。

 医者は、いかにも柔和な感じの紳士だった。
 「よくあるのですよ、そういう思い込みは。確かに、お聞きすると沢山不幸なことが連続していて、あまり普通とは言えませんが、ポイントは、あなたがそういう悪いことばかりを覚えている、ということです。あなたが信じる統計的な考えでいうと、それだけ沢山悪いことがあれば、必ず、良いことも沢山あったはずです。どうですか、思い出してみてください」
 医者はそういって、ニコニコと笑っている。
 大友はいいことを思い出そうと必死に考えた。額に汗が浮かんだが、どうしても思い出せない。その苦しそうな様子見ていて、医者がこういった。
 「わかりました。無理をしなくていいですよ。じゃ、ここで実験してみましょう」
 医者は椅子から立ちあがり、戸棚から注射器を持ってきた。中には何かの紫の液体が入っている。
 「いいですか、この注射器には毒が入っています。そして、これは、ただの針です」
 医者のもう一方の手には注射器の針だけ握られていた。
 「この毒が入った注射器を持っていてください」
 そう言って、医者は大友に注射器を渡した。
 「で、この針だけを私の腕に刺します」
 医者はぶすっと針を自分の腕に刺し、すぐに抜いて、その針をごみ箱に捨てた。
 「どうですか?」
 医者が大友に聞く。
 「どう、と言われても」
 大友が困った顔をしたら、医者は軽く笑いながら「そうですよね、では種明かしをしましょう、実は---」と何かを言いかけた。
 その途端、医者は胸を掻き毟り、その場に倒れて息が絶えてしまった。大友は呆然と座ったままであった。医者は何かを見せて、何かを伝えたかったのだろうが、その途中で持病か何かで心臓が止まってしまったのだった。
 診察室に男が飛び込んできた。
 「先生、いつまで待たせるんや!ん?先生!」
 飛び込んできたのは偶然警察の男だった。手に紫色の液体が入った注射器をもった大友はそのまま連行された。液体は心臓が停止する毒であった。まったく言い訳のできない状況に、またもや「たまたま」大友ははまってしまった。

 留置場に入れられた大友には、医者は何がしたかったのかは結局わからなかったが、運や不幸の存在は分かったような気がした。

[おしまい]


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