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勢川びき
1998年11月


 「さあ、あなた、行きましょうよ」
 聡子が私の手を掴んで玄関の方へ引っ張った。私たちの後ろから「奥さん、あまりゆっくりしないで下さいよ。最近は日が短くて作業時間もあまり余裕がないんだから」と、ヘルメットを浅めに被った解体会社の作業員が聡子を急かした。聡子は全く無視している。


 「ねえ、あなた、さあ」
 ぐっと手を引っ張られ、私はゆるりと玄関の方に歩き出した。
 我が家---だった家の玄関を二人でくぐった。私が経営していた会社が倒産し、担保にしていたこの家を手放したのだった。三十年以上この家にはお世話になった。そして、全てを失ってしまった。殆どの財産も没収された。私はもう生きる気力を無くしていた。
 『それにしても、何故聡子はこんなに楽しそうなのだろう』何も考えたくない私の頭にも聡子の活き活きとした様子が不思議に感じられた。
 「あなた、あまり時間がなくってよ」
 この家と伴に長い時を過ごしてきた聡子の髪はもう半分以上白くなっている。しかし、その顔は十代の少女のように輝いている。
 「あら、いつもの癖で靴を脱いでしまったわ。ほほほ、おかしいわね、もう少しでこの家は解体されるんだから、履いたままでいいわよね」
 私はぼーとしていたので靴は履いたままだった。そのまま聡子に手を引かれて家の中に入っていった。聡子と手をつなぐなんて何十年ぶりだろう。


 「あなた、これ覚えている?」
 玄関の床に丸い跡がついている。
 「え、ああ、なんかの鉢があった跡だろ」
 何故こんなことを聞くのだろう、面倒くさい。
 「そうじゃなくって、何故ここに鉢が置いてあったか覚えている?」
 「何故?」
 「ほら、この鉢の跡の真ん中の床が大きく凹んでいるでしょう。これよ」
 確かにはっきりと凹んでいる。
 「やっぱり忘れているのね。ボーリングブームの時にあなたが酔っ払って帰ってきて、『お土産だ!』とかいってボーリングのボールを投げてここに落ちたのよ。とりあえずその凹みを隠すためにここに鉢を置いたままだったのよ」
 聡子は嬉しそうにその凹みを撫ぜている。私はさっぱり思い出せない。
 「えーと、次は--- 」
 聡子が私の手を引っ張った。狭い廊下から本棚も運び出されて広くなっている。
 「ほら、ここ。本棚があった壁よ。この穴覚えている?」
 本棚が置いてあった壁の膝のあたりにスイカほどの大きさの穴が空いている。
 「これも覚えていないの?」
 私は黙っている。本当に覚えていないのだ。
 「これもあなたが酔っ払って帰ってきて、仕事がうまく行かなかったらしくてヒステリーを起こして壁を蹴って穴を空けたのよ。それを隠すために本棚を置いたの」
 それから、聡子は風呂場の傷やら、階段の板のめくれやら、天井のしみなど、様々なこの三十年の跡を指し示しては、嬉しそうにその原因を説明した。その原因の全ては私だった。そして、その全ての跡は聡子によってうまくカモフラージュされていた。
 この長々と続く聡子の説明にうんざりしながら、私はなされるままに手を引かれていた。


 聡子はいったい何をしようとしているのだろうか---
 「聡子---」
 「え?何?あ、これはさすがに覚えているでしょう、この台所の床の傷」
 流石にこの傷だけは忘れていなかった。私が外に遊びで作った女がこの家に突然やってきて大暴れし、台所で包丁を振り回した挙げ句、最後に捨て台詞とともに放り投げた包丁が見事に床に刺さった傷だった。
 「この傷だけは隠す気がしなかったのよね。たまには思い出してもらわないと。あなたはすぐになんでも忘れるからね、家のことは」
 そうか。なんとなく分かってきたぞ。これは聡子の復讐みたいなものなのだ。仕事と女で家をぞんざいにしてきた私に、聡子は「こうやってあなたの不始末も見えないようにして家を守ってきたのは私なのよ」と言っているのだ。それで、こんなに楽しそうなのか。


 「ええと、大体このくらいね。じゃ、最後はこっち」
 聡子に相変わらず手を引かれて、私は玄関脇の応接間に連れて行かれた。
 「これは何の跡だか分かる?」
 応接間の壁には掛けてあった額縁の跡があった。しかし、それだけだ。
 「絵があったところだな。しかし、何も傷や穴はないぞ」
 そういう私の顔を見て、聡子は嬉しくてたまらない様子だ。
 「ふーん、思い出せないんだ」
 私は少し近づいて壁を見てみた。やはり何もない。
 「じゃ、いいわ。これでおしまい。この家ともお別れね。さ、行きましょう」
 最後は何も説明もせずに聡子は私を外に連れ出した。そして作業員に挨拶をして、二人でバス停の方に向かって歩き出した。背後で解体作業の轟音が始まった。二人は振り向かなかった。


 「ね、何か食べに行かない?おなか空いたわ」聡子は明るくそう言った。私が外食する金を持っていないことはよく分かっているはずだ。「大丈夫、お金ならあるわ。少しだけどね」そういって、聡子は無造作に一万円札を取り出して、ひらひらと見せた。私は不意をつかれて「え」と声を発してしまった。ここ1ヶ月は赤貧の暮らしで、毎日インスタントラーメンの生活だったからだ。
 「どうしたんだ、その金」
 「やっぱり、覚えていないのね。あの額縁の裏に隠してあったあなたのへそくりよ。家のことなんか全然気にしていないから自分のへそくりまで忘れてしまうのよ。家財を持ち出す時に気がついたのよ」
 私の目からはすーっと涙がこぼれ落ちた。
 「聡子---私は---」
 声にならなかった。
 聡子は相変わらずとても楽しそうな顔をしていた。『面白いから、しばらくはそのへそくりで買った宝くじが大当たりしたことは黙っていようっと』

[おしまい]


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