「譲(ゆずる)、本当なの?」
香織の大きな目が涙でいっぱいだった。
「ああ、他に好きな人ができたんだ」
この声色では嘘だとばれてしまっているな、と思いながら譲は香織から視線を外した。
「あなたの…そんな優しいところが好きだった…私が健一とあなたの間で揺れ動いているのをあなたは知って…」
譲は香織がつぶやいているのが聞こえないような感じで香織から離れていった。
香織は暗い公園の広場に佇んだまま去っていく譲を見送っていた。
「ああ……」
譲の顔に至福の表情が浮かんだ。
『他の人に譲るのってなんて幸せなんだ』
親がどうして譲なんて名前を俺につけたのかは知らない。大人になるまでは、どうしていつも他人に負けているばかりなのか自分でも分からなかった。つい最近のことだ。自分は人に譲るのが大好きであるという単純なことに気がついたのは。それが傍目から見ると結果的に「いつも負けている」ということになっていただけなのだ。
香織を失ったことは本当に悲しい。でもそれ以上に譲ることができたのが幸せで仕方がない。
まだよちよち歩きのころも、同じくらいの年齢の子供と遊んでいると、いつもおもちゃを取られてしまう。取り合いに負けるというより、すぐにあげてしまうのだ。
子供のころから運動会ではいつもビリだった。一人だけでタイムを測る短距離だと結構速い方なのに、数人で走るとどうしても一番遅くなってしまう。
満員電車にいつまでも乗れなくて約束に遅れてしまったことも数え切れない。
親からは「譲、何しているの!くやしくないの!」としょっちゅう怒られたものだが、くやしいという意味が分からなかった。
「負けるが勝ち」というようなことではなく「譲るが幸せ」なだけだ。
香織を後にして車に乗りこみエンジンをかけた。走っている間もしばらくまだ香織を健一に「譲った」余韻を楽しんでいた。
人はそれぞれだ。こんな人間がいてもいいだろう。俺は『譲る』ために生まれてきた。それが俺の生きがいであり俺の価値である。
気がつくと交通量がだいぶ増えてきた。ふと横の車線を見ると少し斜め後ろの車がこちらの車線に入ろうをウインカーを出している。
譲はブレーキを踏んだ。普通の人ならむしろスピードを上げて隣の車が後ろに入りやすいようにしてあげる状況だが、譲は自分の前にその車を入れてあげたかった。
その時---。
ブレーキが急だったのか、後ろからトラックが思いっきり譲の車にぶつかってきて、譲の車はコントロールが効かなくなり、大きく跳ね飛ばされてガードレールに何度もぶつかりながら大破した。
血だらけになった譲は薄れゆく意識で考えた。『ちゃんと臓器提供の合意カードは持っていたよな。とうとう命まで譲ることになったか……ああ、これは最高だ……』
思考能力が殆どなくなった譲の脳裏に香織の大きな目が浮かんだ。それがふっと消えたかと思うと、受験の合格発表のボードに自分の名前がないのを確かめて笑みを浮かべている自分自身が見えた。そして、パチンコ屋で隣の人に密かに自分の玉をあげている自分、本当はもう詰めまで分かっていたのにわざと負けた将棋のシーン、友達に傘をあげてずぶぬれになっている自分……次から次へとこれまでの自分の人生が走馬灯のようにして現れては消えた。
譲はとても幸せな気分であった。
とうとう目の前が真っ暗になってきた。ああ、これで終わりか…。
しかし真っ暗と思った自分の周りに白く長いものが沢山漂っている。何だこれは?ふと後ろを振り返ると自分を先頭にして無数の白い線状のものが蛇のような動きで泳いでいる。しかし自分の前は暗闇が広がるだけだ。自分も含めて同じ方向に泳いでいる。そのうち、前方に大きな球体が浮かんでいるのが見えてきた。自分は一直線にその球体に向かっている。
そうか、これは俺がまだ精子の時の記憶なんだ。球体は卵子なんだ。
俺は球体にもぐりこんだ。やった!勝った!俺は喜んでいる。俺に遅れてやってきた無数の精子は球体の周りでもがき、やがて死んでいった。
自分はこうやって生まれてきたのだ。何が譲る幸せだ。何がそれが俺の人生の価値だ。
谷底に突き落とされたような暗澹たる気持ちとなり、真の闇がやってきた。
[おしまい]