夏の香りが少し残る縁側で隆文と静江はお茶を静かにすすっている。聞こえてくるのはお互いのお茶の音と木々の葉が擦れ合うかすかな音だけだ。隆文と静江が六十年以上に渡って築いてきた夫婦という間柄にとっては、この静寂は息苦しいものではない。
「そういえば」
「うん?」
静江が静寂を破ったが、それにも無理はない。
「中村さんはお元気かしら」
「中村?」
「ほら、あの太い眉毛が特徴的な」
「ああ、彼か。そうだな。しばらく会っていないな。確かグアムに行った時に崖っぷちの名所で会った人だよな」
「そうそう、暑くてアイスクリームがどんどん溶けちゃって、口の周りがべとべとになっていた」
「ふふ」
そして、また静寂が戻った。
「加藤さんはどうしているかな?」
今度は隆文がつぶやいた。
「加藤さんって……あ、あの加藤さん?いつも大きな帽子をかぶっていた」
「そうだ。黄色いのとシマウマみたいな帽子がお気に入りだった」
ずずーっ……会話が途切れて終わってしまったように見えても二人にとってはそれが自然だった。阿吽の呼吸というようなものである。長年の夫婦生活には、それなりにいろいろなことがあったが、今となれば、静かに暖かい時だけが流れていた。昔の思い出が断片的に現れては、二人でお互いに思い出を共有していることを確認するのが幸せであった。
「大きな足の戸倉さん」
「戸倉さんは大きな足じゃなくて大きな口だろ」
「いえ、大きな足ですよ。口は普通です」
「足の大きさは覚えておらんが、口は確かに大きかったぞ」
静江はこれ以上口論することはやめ、床の間の横の押し入れを開け、アルバムを取り出して縁側に持ってきた。
「えーっと、確か戸倉さんは私たちの結婚式に出席していたはずだわ……ほら、あった。足が大きいのが自慢で、いつもわざと靴の裏をカメラに向けているのよ、この人」
集合写真の中で、一人足を上げて無理やり足の裏をこちらに向けている男がいた。
「いや、この人は阿坂さんだ。こっちの口の大きな人が戸倉さんだぞ」
「そうだったかしら」
そう言ったまま、二人は無言でこの写真を見つめていた。長い時間が流れた。ただ、この沈黙はこれまでの沈黙とは違い、多少、「緊張」が含まれていた。その理由は、
隆文『これが静江の若い時の写真か。こんなにきれいだったんだ。不覚にも忘れていた。目の前のばあさんとは余りに違うな。時は残酷なものだ』
静江『これが隆文さんの若い時の写真?こんなに素敵だったかしら。忘れてしまっていたわ。たぶん、とってもドキドキして恋してたはずね。今じゃこんなにデブで禿げのおじいちゃんだけど』
お互い、さすがに思っていることを素直に口に出すことができず、そのまま固まったように写真を見ていた。でも、若い時の姿を思い出すことができ、とても幸せな気分でもあった。
その時、玄関のドアがバタンと開き、「ただいまー!」と小学生の女の子が勢い良く入ってきた。
「お、咲、お帰り」
やっと喉元につっかえていたものが取れたように隆文が声をかけた
「咲ちゃん、お帰りなさい」
「ただいま、おじいちゃん、おばあちゃん。何してるの?」
「アルバムを見ているんだよ」
咲はちょっと不思議そうな顔をして、台所の方に消えていった。
隆文と静江はやっとアルバムのページをめくって「この山井さんはなあ」といつもの話を始めた。
台所で食事の支度をしていた母親に咲が尋ねた。
「ねえ、どうして、隣のおじいちゃんとおばあちゃんはいつもうちのアルバムを見て楽しそうに笑っているの?」
「ちょっと前にうちのアルバムを見せて、どれが誰かを教えてあげたら、それから気に入っちゃって、お二人で名前や特徴を覚えているかどうかのゲームみたいなことをし始めたのだけど……どうも最近は、あのアルバムが自分たちのものと勘違いしているみたいね。ま、幸せそうにしゃべっているみたいだから敢えて訂正するつもりはないし……」
[おしまい]