青い空にそよぐ風が春の訪れを感じさせる。庭の梅の木にメジロのつがいが来て戯れている。
次郎は縁側に腰を掛け、その様子をぼんやりと眺めている。
襖が静かに開き「おとうさん」と娘の涼子が声をかけた。次郎は少し驚いたような雰囲気で涼子の方に振り向いた。
涼子は次郎の側まで寄っていき、ゆっくりと正座をして、両手を畳の上に揃えた。
「おとうさん、これまで本当にお世話になりました。たくさんご迷惑をおかけしましたが、『おめでとう』と、送り出してください」
今日は涼子の結婚式である。
父、次郎は想う---
---そうだな。いよいよこの日が来たか。この娘と伴に過ごした辛かった日々や楽しかった日々---
涼子は頭を下げたまま、父から「おめでとう」と言われるのを待っている。
---この子が出来てしまったおかげで、本命の彼女に逃げられてしまった。そして、あの悪魔のような今の妻と結婚するはめになった---
この娘と伴に過ごした辛かった日々や楽しかった日々。
---この子が赤ん坊の時、当時の部長がわざわざ家に来てくれたのに、奥さんの高価な着物の上でこの子がおしっこを漏らして……それから、出世とは縁がなくなってしまった---
---この娘と伴に過ごした辛かった日々や楽しかった日々。
---この子が小学校の時、ドッジボールをヤクザの黒塗りの車に当てて、ボーナスが吹っ飛んだ---
「おとうさん」
涼子が次郎を見つめて、言葉を促す。次郎は「ううん……」と曖昧である。
この娘と伴に過ごした辛かった日々や楽しかった日々。
---この子が中学校の時、悪い友達に誘われ、暴走族の下っ端になり、毎日のように警察に呼び出され、仕事にならなかった---
この娘と伴に過ごした辛かった日々や楽しかった日々……しかし、辛い想い出しか出てこない。今日くらい楽しかったことを思い出して、気持ちよく娘を送り出してやりたい。
「おとうさん!」
涼子は少し声を荒げた。
この娘と伴に過ごした辛かった日々や楽しかった日々。
---苦労して苦労してやっと高校に入れたと思ったら、どう見てもまともじゃない男の子供を孕んで、結婚するという。その男は、結婚費用に必要だから、金をくれと言うが何に使うか分かったもんじゃない---
だめだ、どうしても楽しかったことを思い出せない。
「おとうさん、お願いだから『おめでとう』って言って!」
涼子は背筋を伸ばし、次郎に懇願した。
しかし、次郎は「あ、ああ……」と言って、また黙り込んでしまった。楽しかったことを一生懸命探している。
「もう、頼むから『おめでとう』だけ言ってよ!」
楽しいこと、楽しいこと……まあ、この娘から開放されることかも。
「めでたい」
次郎の口から、突然、この言葉が出た。次郎自身も無意識に出たこの言葉に驚いていた。
涼子はしばらく次郎の顔をじっと見つめていた。二人の間に沈黙の時間が流れた。
次郎と向き合っていた涼子の表情が、徐々に崩れていき、泣きそうな顔になっていった。
次郎は無意識の自分の言葉にちょっと感謝していた。
涼子はその泣きそうな表情のまま、突然、ぱっと立ちあがったと思うと、怒りの表情で次郎をにらみつけた。そうだ、この子は怒る前は泣きそうな顔になるんだった。
「テメェ、下手に出ればいい気になりやがって!今の『めでたい』は、テメェ自身に対して言ったんだろうが!アタシを追い出して、そんなに嬉しいか!このジジィ!」
そう言いながら、涼子は次郎をボコボコに殴っていた。次郎は、これまでよくこうやって涼子に殴られていたのを思い出しながら、口元に笑みが零れていた。懐かしいのやら、嬉しいのやら。……痛いのやら。
[おしまい]