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<< 第3回>> 勢川びき 2000年1月29日

生きている

 「娘」で報告しているように、脳死患者からの臓器移植の問題は私にとってとても身近なものとなりました。
 そこで、昔から考えている「『死んだ』ということの定義」について述べましょう。

 変な話から始めますが、私の家の庭には茄子の木が10本ほどあります。昨年、種から育てたもので、かなり大きく成長したのですが、余り茄子はできませんでした。冬になったのですが、そのままにしてあり何本かは明らかに枯れてきましたが、何本かは比較的元気そうです。
 植物の場合は徐々に死んでいきます。「あ、この花、今死んだ」というようなことはありません。時間をかけて枯れていきます。
 人の死はほんの少し前までは「心臓停止」が基本でした。ところが、脳は死んでいても他の臓器は機械がサポートできるようになり、生死の境界が曖昧になりました。
 考えて見ると、元々生死の境は植物の例でも分かるように曖昧でした。心臓が停止しても、体の全ての細胞が活動停止するまでにはかなりの時間がかかります。

 そこで、少し見方を変えてみます。

 「死んだ」ということは「生き返らない」という風に捉えてみましょう。
 そうすると、例えば、野菜を畑から採取した瞬間に、畑で生えていた状態には戻らないので、この時点で「死んだ」こととなります。
 脳死も、人間として生きている元の状態には戻らないので「死んだ」ことになります。
 もちろん、奇跡と呼ばれる非常に小さな確率で思いもよらぬことが起こることがありますから、「生き返らない」と言うよりは「まず間違いなく生き返らない」という方が正確でしょう。
 エジプトのミイラやライフスペース/加江田塾事件も、「絶対生き返らないということは言えない」ということでは共通していますが、余りに確率が小さいものです。もし、彼らが生き返るとしたら、他の死んだはずの人々(骨だけになっていても)も生き返るかもしれません。

 臓器移植問題は無意識に「生き返らない可能性」の議論をしています。
 「脳死の人が生き返る可能性」と「臓器移植によって他の人が生き延べられる可能性」を比べた場合、圧倒的に後者の方が大きいのです。
 もちろん 娘 No.2「統計的視点と親の身勝手」で書いた話にも似ていて、親や親族はそのありえない可能性に賭けてみたい気持ちになるのは当然ですが。

 私は脳死問題が自分自身に身近になる前から脳死の臓器提供に賛成しています。少なくとも自分が脳死になったら、他の人に臓器を使って欲しい。アメリカの免許証には簡単な「ドナーシール」を貼れるようになっていて、私は貼っています。
 家族が脳死状態になったら、本当に辛い決断となりますが、是非この確率的視点で考えて欲しいものです。


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